モノ作りで日本が得意な分野は、カメラ、ウォークマン、バイク、自動車。これらは、世界のトップクラスだ。ところが、それより大きなモノ作りは決して得意とは言えない。何故だろう。
日本がモノ作りで得意とされるものは、みんなコンパクトでイメージし易いものだ。モノ作りに参加して居る人達が、同じイメージを共有できれば、良いものが作れる。
前回は、「バランスの悪い桶」を例に「バランスの良い設計」の説明をしたが、「桶のイラスト」を一見すれば、問題が把握できる。だが、桶が見えずに「手探り状態」の場合、「バランスの良い設計」が困難になる。
「桶のイラスト」のように、「どの板を長くすると良くなる」とか「どの板は短くしても良い」とか「長さを揃えた方が良い」とか、それぞれの要素が、どのように結び付いて居るかを「問題の構造」と言う。良いモノ作りのためには、「問題の構造」を把握することが必要だ。
或る説によると、日本のモノ作りは、部品数が10万点を超ると苦手になると言う。その説が本当かどうかは知らないが、バイクの部品数が8000~1万、車が1万~4万だと聞くと、なんとなくそうかと思ってしまう。ちなみにロケットの部品数は約30万だそうだ。
とすると、「10万より少ない部品数なら、問題の構造の把握ができ、バランスの良い設計ができる」なのかもしれない。
私は、単純に部品数で決まるとは思えっていない。部品数では10万を超ても、日本の得意なモノがあるからだ。例えば、システムとしての「鉄道」である。15両の一編成だけでも、車の部品数の何倍も有るだろうし、その上、同じ線路の上を走って居る他の車両まで考えると、とてつもない部品数となる。ただし、鉄道の場合は同じような車両が何台もある。部品の数は多くても、その種類は余り多くは無いのだと思う。
必ずしも部品数が10万を超ると難しくなるかは微妙だ。しかし、この「10万」と言う数字は、一人の人間が一つ一つの部品まで把握する限界なのではないかと思う。
「10万」と言う数字だけでは、それを把握できるかどうか分らないと思うが、分かりやすい数字を例にしてみよう。
例えば、小学校や中学校で覚えた教育漢字は1006文字である。これは義務教育を受けた人なら誰でも全て覚えていることになる(筈だが、最近ワープロのせいか、危ない)。
常用漢字は1945文字。この程度は、すぐには書けなくても見れば区別が付くだろう。
逆に多い方では、広辞苑の項目数は23万語。多分知らない言葉がイッパイあるのだろう。同じ岩波書店の一般的な国語辞典は6万3千語。(別に岩波書店に義理は無いが、比較のために同じ出版社の辞典にした)
「広辞苑の言葉を全て覚えてるのは無理」だが、「国語辞典の言葉の半分くらいは既に知って居るんじゃないか?」と言う気にならないか?
「国語辞典の半分の言葉」なら、3万。ちょうど、自動車の部品数に等しい。
ロケットの部品数は、広辞苑を超る。
つまり、部品数が少なければ、一人の人間で覚え切れる範囲になり、モノ作りの対象である「モノ自体」に精通できる。その結果、「問題の構造」を把握でき、「バランスの良い設計」が可能になる。
「良いモノ作り」のためには「バランスの良い設計が必須」で、そのために「問題の構造」の把握が必要。
「問題の構造」の把握のために、「モノ自体」に精通することが大切だ。
「より良いもの」、「より高性能なもの」「より高機能なもの」「より複雑なもの」「より大規模なもの」を作るためには、精進して「モノ自体」に精通できるように努力する事が大事だ。
と、当然のように思う。
だが、ここに大きな落とし穴がある。
「何故、欧米では日本人が苦手とする巨大システムの開発が可能なのか?」
その答えがない。
「欧米人は、把握できる部品数が、日本人よりも多い」のか?
そんな事は無いだろう。人種により把握できる部品数の上限に差はあるかどうか知らないが、たぶん、有意な差は無いだろう。
では、何が、日本人と欧米人の差だろうか?
日本人の場合、さっき書いたように
『「より良いもの」、「より高性能なもの」「より高機能なもの」「より複雑なもの」「より大規模なもの」を作るためには、精進して「モノ自体」に精通できるように努力する事が大事だ。』
と、本当に精進・努力をする。
部品数が、1万、2万の内は良い。確かに精進・努力をすれば、それに応じて「より良いもの」を作ることができた。
ところが、部品数が10万を越え、一人の人間で把握できなくなると、「より良いもの」が作れなくなる。これは、精進・努力が足りないのだと反省し、さらに精進・努力を繰り返す。だが、一向に事態は好転しない・・・
では、欧米人は、どうだろう。
彼らは、あっさり精進・努力を諦めてしまう。
「諦めるなんて、情けない」等と思ってはいけない。彼らは「諦める」代りに、もっと大きな事を受け入れるのだ。
「自分が有限の能力しかない人間であること」を受け入れるのだ。
日本人は、極めて諦めが悪いというか、プライドが高いというか、「自分が有限の能力しかない人間であること」と言う当たり前のことを受け入ることができない。だから、何でも精進・努力さえすれば、物事が解決すると考えてしまう。それは或る意味、人間を超る超人になろうという無駄な努力に似ている。
だが、発想を変え、「自分が有限の能力しかない人間であること」を受け入れれば、違うアプローチが生まれる。
もう一度、良く考えてみよう。
(1) 「良いモノ作り」のためには「バランスの良い設計が必須」・・これは本当だ、たぶん。
(2) そのために「問題の構造」の把握が必要・・これも本当だ、たぶん。
(3) 「問題の構造」の把握のために、「モノ自体」に精通することが大切だ。・・これは必ずしも、そうではない!!
「問題の構造の把握」に有効な方法の一つが「モノ自体に精通すること」であることは事実だ。
だが、必ずしも「モノ自体に精通すること」が「問題の構造の把握」に有効な唯一の方法である訳ではない。
要は「問題の構造の把握」さえできれば良いのだ。必ずしも「モノ自体に精通する」必要は無い。
何らかの方法で「問題の構造」を抽象化し、それを「把握」する。それにより、「個人の有限の能力」の限界を遥かに超ることが可能となる。
貴方は、どうする?
プライドから、「自分が有限の能力しかない人間であること」を受け入れるのを拒み続けるか?
それとも、それを受け入れ、「個人の有限の能力の限界を遥かに超ること」を可能とするか?
もちろん、問題は、如何にして「問題の構造」を抽象化するかなんだが・・・
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